大槻一博と手塚治虫は同じルーツ
系譜図の通り、大槻一博の高祖父・大槻俊斎と手塚治虫の高祖父・手塚良仙は、江戸末期同じグループ(三角形の部分)で、幕府の医学だった漢方医学と闘いました。
当時、はやり病だった天然痘(別名コロリ)は、漢方薬や鍼灸では、何もできませんでした。
大槻俊斎は、仙台の田舎、陸奥国桃生郡赤井村(現・宮城東松島市)に生まれ、兄の援助で18才で江戸に渡りました。
初めは川越藩の医官高橋尚斎の学僕として勉強し、後同師の推薦で、手塚良仙の門人となりました。その後、手塚良仙に才を認められ、34才で長崎への留学の庇護を受け、蘭学を学び、天保11年(1840年)、江戸に戻り開業しています。 また、手塚良仙は、大槻俊斎を自分の娘・手塚海香の娘婿に迎えています。
良仙の玄孫にあたる手塚治虫は、良庵を主人公の一人とする漫画『陽だまりの樹』を執筆し、良庵の父・光照も主要人物として登場させ、作者の治虫の自画像そっくりに作画しました。なお作品中では、光照は既に良仙を名乗っており、後に良庵が良仙の名を継いでいます。
系譜図の通り、大槻家は、手塚家からお嫁さんを2人もらっているので、大槻家の血筋には、手塚家の血が濃く入っています。(なので私の鼻は、お茶の博士のように大きいのかな?)
大槻俊斎の出版物
大槻俊斎は、安政1年(1854年)オランダ人モストの『創傷篇』のうちの銃創部を抄訳して『銃創瑣言』として出版しました。27ページの小冊子ながら,わが国における軍陣外科学の最初の出版物として注目されています。
この本は、嘉永6年(1853年)6月米使ペリーが浦賀に、同7月に露使プチャーチンが長崎に来航したのを契機に、海防に備えて、大槻俊斉が蘭書から銃創治療の要項を抄訳したものです。緊急のため、幕府は医学館による検閲を行わずに、本書の公刊を許可しました。この本は、東京大学総合図書館に保管されています。
江戸の医学
江戸時代、江戸城で暮らす将軍や側室の健康管理をしていたのは、奥医師と呼ばれる一握りの高位の医師でした。奥医師の構成は、内科、外科、鍼科、眼科、口科で、診察は、まず脈診や舌診から始まりました。
そこで問題があれば、腹診で、はりやむくみ、しこりなどの異常を見つけることを定期的に検診をしていました。内科の考え方は、肝・心・脾・肺・腎の5臓と大腸・小腸・胆・胃・三焦・膀胱の6腑の調和がとれている状態が良く、その調和が崩れた状態を病気としました。
診察は、望診(目で見る)、聞診(音を聞いたり、匂いを嗅いだりする)、問診(症状を聞く)、切診(脈を診たり、腹部を触診したりする)の4つの方法で、重視されていたのが、脈診と腹診でした。そして、診察の結果、症状にあった漢方薬を処方するのが、医師の仕事でした。外科は、骨折・打撲・捻挫・脱臼の他、現代とは違い、皮膚科と泌尿器科の一部の治療も行っていました。鍼科は、鍼灸を用い、痛みや炎症がある所に関係した、ツボを用いて、鍼治療を行い、場合によっては、もぐさを用いて、皮フを焼くことが一般的でした。眼科は、当時ビタミン不足で起こる鳥目や涙目を扱い、秘伝の目薬を用いたり、鍼を用いて白内障や緑内障の手術も行われました。口科では、薬の内服、塗布が行われましたが、虫歯は結局抜歯されることになり、麻酔薬がなかったので、かなりの痛みを伴ったことが考えられます。
18世紀後半に杉田玄白による「解体新書」が出版されるまで、江戸医学は上記のように漢方薬中心の内科の治療が主流でした。当時西洋医学の手術器具を使う外科手術は、日本人を驚かせましたが、細菌学が発達する19世紀後半まで病気の知識や治療効果には漢方と西洋医学には大差がなかったようです。
しかし、江戸後期、正確な人体の構造に目覚めた医師達は、漢方の幼稚な解剖に疑問を持ち、蘭(オランダ)医学へと意識が変わって行きました。そして、天然痘が流行り、これを機会に漢方医学が蘭学へと変化していきます。
天然痘の撲滅から種痘所開設へ
天然痘ウイルスは、人類が根絶に成功した最初の病原体で、1980年5月、WHOにより根絶宣言が出され、2013年現在、特定研究所以外には存在していません。
天然痘は、世界で初めてワクチンが開発された感染症で、今日、種痘と呼ばれるその方法は、1796年に英国の開業医エドワード・ジェンナーが開発したものです。
ジェンナーは、乳牛にときどき牛痘が流行し、これに感染した乳搾りの女性は天然痘に感染しないことを知り、乳搾りの女性から牛痘の発疹内容液を取り、8歳の少年の腕に傷を付けて接種したが、その6週後に天然痘の膿を接種しても何も反応がみられなかった。そのことが、重大な発見となり、その後、牛痘ワクチンはヒトからヒトへと植え継がれ、種痘は広がっていきました。
1857年、天然痘ワクチンは日本に上陸、オランダ軍医ポンペが種痘を公開しました。翌1858年、医師伊東玄朴、大槻俊斎らが種痘普及のため神田にお玉ケ池種痘所を設立しました。ワクチンの語源がラテン語のvacca(ワッカ=雌牛)なのはよく知られています。
種痘所から東大医学部へ
大槻俊斎は、文化3年(1806年)に生まれ、文久2年4月9日(1862年5月7日)に没しました。
大槻俊斎は、蘭学医師シーボルトが国外追になった後、長崎医学伝習所にて、来日したポンペ医師から蘭医学(種痘)を学び、安政5年(1858年)、蘭方医の伊東玄朴・戸塚静海らと協力し、神田お玉が池に種痘所設立し、そこの所長となりました。
延元年(1860年)9月1日、将軍徳川家茂に拝謁し、お目見え医師となります。同年1月27日、陸奥国仙台藩医より幕府医師に登用され、種痘所が公営(幕府営)なった後も、そのまま頭取を勤めました。墓碑は巣鴨総禅寺にあります。手塚家の墓と大槻家の墓は、中が良かったせいか、隣同士にあります。
この大槻俊斎、日本ではじめて本格的な外科手術を導入した方で、体内の破断血管を糸で結紮する止血手術や、弾丸で破砕された手足の断手術まで手掛けました。まさに幕末の天才外科医「ブラックジャック」といわれています。 お玉が池種痘所は、その後西洋医学所、医学所等と改称・発展し、東京大学医学部の前身されるため、大槻俊斎先生は東京大学医学部初代部長と見なされ、東大医学部のホームページにも、掲載されています。