タイの医学

OMS

1.タイ伝統医学の起源

タイ伝統医学の起源は、インドやパキスタンまでさかのぼることができます。
 インドからスリランカを経て、タイに伝わった南伝仏教(上座部仏教)と共に、伝統医学も伝わってきたと考えられているからです。そしてその後、中国の漢方医学の影響も受けています。
 つまり、タイの地でインドの伝統医学に中国の漢方医学が融合し、その上にタイの人たちの経験医学が積み重なり、タイ伝統医学の基礎が確立されたのです。その成立過程を知るには、タイ伝統医学の祖シワカ・コマラパ師の生い立ちを知ることが大切です。

2.シワカ・コマラパ師の時代

シワカ・コマラパ師については、パーリ語、サンスクリット語、チベット語、漢語などの仏教文献にその伝説が残されています。
 それらの文献には、彼は約2500年前、釈尊の時代にインドで生まれたと書かれています。
 古代マガタ王国時代、ラージャグリハ(マガタ王国の首都、現在のインドのラージキル)のゴミの山に一人の子が捨てられていました。ちょうどその時、アパイラーチャクマーン王子が通りかかり、その子を見つけ、「その子はまだ生きているか」と聞き、兵士は「はい」と答え、その子は王子によって拾われ、宮殿に連れて行かれ、ビンビサーラ王の孫という立場で大切に育てられました。子供はシワカと名付けられましたが、それは「彼はまだ生きていた」という意味です。そして王子が彼の面倒をみたことからコマラパと呼ばれました。コマラパとは、「王子によって養われた」という意味です。

彼が自分で、生計を立てなければならない年齢に達したとき、彼は医術を習おうと決心し、タクシャシラ(現在のパキスタン、タキシラ)という町に行き医学を学びました。
 当時、タクシャシラは医学の習得や、技芸や科学、また伝統的バラモンの学習の中心地でした。通常16年で医師になるための知識を学ぶところ、彼は7年でその課程を修了し、その間に薬草に関しての知識や処方の仕方、鍼術、脈診術、開頭術などをマスターしました。


 最後の実地試験で先生のアートレーヤ医師は、彼の薬草に関する知識を試すため、彼を森に行かせ、「森の中から薬にならない草を取ってくるよう」指示しました。森の中には、薬にならない草が一つもないことを知っていた彼は見事に試験に合格しました。試験に合格後、彼はラージャグリハに戻りました。一方、アートレーヤ医師は中国へ渡り、医学を広めたという伝説が残っています。

シワカ・コマラパ師は、ビンビサーラ王の痔瘻を軟膏で治し、頭頂部のできものをカミソリで切開し、傷を固める薬を使い治すなどの数々の治療を成功させました。傷が治り、王が回復したときに、ビンビサーラ王は、シワカ・コマラパ師を「医師の王」に任命し、釈尊の主治医に決めました。
 その時釈尊は「前世で私とあなたは、人々を癒すという誓いを立てた。私は心の病気を、あなたは体の病気を治すのだ」と彼に言われました。
 シワカ・コマラパ師の住居は、釈尊が説法をして家に帰る途中にありました。そのため二人は良くそこでお話をされていたそうです。

3.シワカ・コマラパ師の系譜

初期のヴェーダ医学は、神々への讃歌を集めた「リグ・ヴェーダ」や医術の呪文やまじないが書かれた「アタルヴァ・ヴェーダ」に受け継がれ、それらの知識に治療家や医者、苦行者の経験医学が加わり、アートレーヤ医師が生きていた時代の医学になります。
 アートレーヤ医師には、シワカ・コマラパ(ジーヴァカ・コマラバッカ)をはじめ、アグニヴェーシャ、ベーラ、ジャトゥーカルナ、パラーシャラ、ハーリータ、クシャーラパーニという6人の高名な弟子がいて、彼らの医学に内科学を扱う「チャラカ・サンヒター」、婦人科を扱う「カーシャパ・サンヒター」、外科学を扱う「スシュルタ・サンヒター」などが加わり、アーユル・ヴェーダ医学へ発展します。
 一方、アートレーヤ医師の医学は、シワカ・コマラパ師を通して仏教医学の基礎となります。そして、それらの知識にタイの地での経験医学が積み重なり、タイ伝統医学が確立されたのです。

4.クメール(カンボジア)王国時代

タイに於ける伝統医学の歴史は、クメール王国時代にまで遡れます。古代カンボジアは、紀元前後からインド文化の影響(稲作、灌漑、2頭牛車、砂糖椰子、文字、武器、王権の概念、建築、バラモン教など)を強く受けていました。そこには1世紀から2世紀にかけてテラワーダ仏教が流入し、3世紀から6世紀まではヒンドゥー教も流入し、仏教と併存しています。
 その後、7世紀から8世紀にかけて大乗仏教の勢力が増し、9世紀になるとヒンドゥー教シヴァ派の「現人神」の儀式(王が神となるバラモン儀式)が盛んになり、仏教は公式の場から姿を消してしまいます。

1113年にスールヤヴァルマン2世が即位し、ヒンドゥー教寺院であるアンコール・ワットを30年かけて建設し、この地を統一します。アンコール・ワットは、アンコール遺跡群の中で最大の建造物で、その壮大な伽藍はヒンドゥー教のヴィシュヌ神に捧げられ、王の死後は彼の墳墓寺院となり、現在は仏教寺院となっています。

スールヤヴァルマン2世死後、継承者王は短命で、王権の弱体化による政情不安に乗じて、ベトナムにあった隣国チャンパにより、アンコール都城は蹂躙されてしまいます。
 ジャヤヴァルマン7世は、トンレサップ湖上でチャンパ軍と戦い大勝利をおさめ、1181年、第21代王として即位します。

ジャヤヴァルマン7世は、大乗仏教に帰依したはじめての王であり、仏教寺院であるアンコール・トムを創設しました。そして、中心には「菩薩の慈愛が全世界に及ぶように」との願いを込め、口元に微笑みを浮かべた観世音菩薩が祀られて
いるバイヨン寺院を構築しました。
 彼はインドのアショカ王を理想の王とし、「仏法をもって天下を平定し、正義をもって世界を統治する君主になりたいと願っていた」といわれています。また「自分の苦しみより、民の嘆きのために泣く」とまでいわれた王でもあります。

ジャヤヴァルマン7世は約40年間の在位中、各地の富を都城に集める幹線道路を整備し、旅人の利便を図るため121の宿駅を設けました。また、無料の病院施設である「アローカヤサート」を102ヵ所建設しました。現在でも、タイ
東北部マハーサラカムには、完全な形で残されている「アローカヤサート」が存在しています。
 クメール王国には仏教とヒンドゥー教が流入したため、当時の医学も仏教医学とアーユルヴェーダ医学双方の影響があったと推測できます。様々な病気の患者がこれらのアローカヤサートで治療を受けた際、薬用植物から作られたと考えられる薬による治療のほか、仏像を使った呪文や祈祷による治療も行われていたようです。

5.タイ族の南下

先史時代、現在のタイの地にはインド系先住民のモン族が住んでいて、4千年以上前から農耕文明を築いていました。
 一方、中国南部の雲南、四川、広西の三省にまたがる山岳地帯で暮らしていたタイ族(最近の調査ではベトナム東北部という説が有力である)は、漢民族の圧力で、後8~9世紀頃から徐々に南下をし始め、2百~3百年という長い年月をかけて、チェンマイ県からチェンライ県に流入しました。
 タイ族は侵略民族でしたが、征服者としての立場ではなく、ある時は奴隷として連行されたりしながら、厳しい状況の中、定住地を求めなければならなかったのです。そして11世紀の初頭には、タイ北部の地域に多くのムアン(小首長国)を建て、定住するようになりましたが、独立はしておらず、クメール帝国の支配下にあったことがうかがえます。

6.タイ族最初王朝のスコータイ王国

1096年に、タイ北部に都市国家規模のパヤオ国が興り、後のスコータイ王国やラーンナー王国と友好関係を保つようになります。
 1218年頃、40年間クメール王国を統治をしていたジャヤヴァルマン7世が亡くなると、タイ族はムアンを併合して一致団結し、クメール王国に対して反乱を起こしました。そして1238年、最初の統一王朝スコータイ王国を建国します。

スコータイ王国の建国者シーイントラチット王は、建国した際、クメール王国の文化を払拭するために仏教を国内に広めました。スコータイ王朝は、第3代国王ラームカムヘンの時に最盛期を迎え、現在のタイの国土以上に広い地域を制圧しました。

ラームカムヘン王は、中国から陶磁器製造技術を持ち込んだり、クメール文字をもとにタイ文字を生み出したり、テラワーダ仏教を国内に普及させたりしました。ラームカムヘン王の碑文には、「国民が病のとき利用することができるように、大きな薬用植物園をカオルアン山、またはカオサッパヤー山の上にお作りになった」という記述が残されており、その山は今でもスコータイ県キリマート郡に存在します。
 また、「水に魚あり、田には稲あり、王は民に税を課さず、他人の富を見ても欲しがらない」、「王宮の門には鐘が吊してあり、平民が争い事を起こした時は、その鐘を鳴らせばよい。王はその訴え事を聞き、公平に判決するであろう」とも書かれていて、当時の国の豊かさが想像できます。
 インドから仏教と共に伝来し、仏教僧たちを救っていた仏教医学は、タイの地で伝統医学としてその技術は確立されました。そして、ワットと呼ばれる寺院で民衆を救っていくのです。
 タイでのワットの役割は、仏教の教えを説く所だけではなく、集会所や学校の代わりにもなり、病院の役割を果たすことも多くありました。そのワットで、タイマッサージは奉仕活動の一環として、体の悪い人たちに無償で施され、仏教の教えとタイ伝統医学(タイマッサージ、薬草医学、栄養医学、霊的精神療法、薬草サウナ療法)は一体化して、タイ全土に広がっていったのです。

7.伝統医学の宝庫:ラーンナー王国

一方1281年、ムアン・グンヤーンのメンライ王は、タイ北部のチェンマイ、チェンライ、ランプーン、メーホーソーン、プレー、ナーンといった地域にまたがる大小のムアンを次々と攻略しました。
 最後にはハリプンジャヤ国も攻略して、ラーンナー王国を建国し1296年に新都としてチェンマイを造営しました。このラーンナー王朝は、1474年までアユタヤ王朝と対立を続けています。
 ラーンナー王国では、14世紀中頃から、テラワーダ仏教が広まりましたが、1558年ビルマ軍に破れ、約200年の間、ビルマの属国となっています。
 18世紀には、一時的にビルマから独立をしますが、1939年にはラタナコーシン王朝(バンコク王朝)に併合されてしまいます。
 しかし歴史的には、アユタヤ、ラタナコーシン王朝とは異なる文化、医学、言語、武術、習慣を持ち独自性の強い王朝であったことがわかっています。

8.アユタヤ王朝

スコータイ王朝の寿命は約150年と短く、14世紀中頃に同じタイ族のラーマティボディ1世が築いた、アユタヤ王朝に併合されてしまいます。
 アユタヤ王朝の勢いはめざましく、東のクメール王国の牙城であったアンコールを陥落させ、インドシナ半島中央部をほぼ支配下におき、南はマレー諸国を脅かすほどまでに領土を拡大します。
 アユタヤ王朝は、文化的にはテラワーダ仏教を国教としながらも、王の権威を高めるため、バラモン教の神であるシヴァ神やヴィシュヌ神の概念も導入しました。

17世紀アユタヤには、中国人、ポルトガル人、日本人などの居留区があり、海外貿易も盛んで日本からは御朱印船が来航し、当時日本人町には、800人から3000人の日本人が住んでいました。日本人義勇隊長としては山田長政が活躍しましたが、戦闘中に脚を負傷し、傷口に毒入りの膏薬を塗られて死亡してしまいます。その後、「日本人は反乱の可能性がある」とし、アユタヤ日本人町は焼き打ちされました。

アユタヤ時代は、モー・ヌワッド(マッサージ医師)局、薬剤師、小児科医、赤い鞄や赤い杖を持ったモー・ルアン(王家の医師)などに分野が区分けされていました。赤い杖はどこでも薬用植物の採集ができるという許可証の証でした。
 「タイ人は病気になっても何もせず、ただマッサージをする。そしてたいてい治ってしまう」とフランス人の神父ラールベーは述べています。この言葉は、伝統医学の中でもとりわけタイマッサージによる治療が既に一般に広く普及していたことを反映しています。
 タイマッサージは庶民の間から起こり、それが宮廷マッサージの形まで発展し、王族・貴族の人たちに施されたと考えられます。

しかし18世紀になると、アユタヤ王朝の勢いも衰えはじめ、1767年には、度重なるビルマ軍の攻撃にアユタヤは遂に陥落し、417年間の王朝に幕を閉じました。
 この時に、重要な伝統医学書や宗教教義、政府の公式記録のほとんどが失われてしまいます。
 アユタヤ陥落の半年後、猛将タクシンは、アユタヤを急襲して、ビルマ軍を完全に撃破し、再びアユタヤを取り戻します。タクシン王は、廃墟となったアユタヤに見切りをつけて、南のチャオプラヤー川沿いのトンブリに都を移し王朝を築きます。しかし晩年精神障害をきたし、1782年、部下によって処刑されてしまいます。

9.ラタナコーシン王朝時代

①ラーマ1世の時代(1782年~1809年)
 タクシン王死後、ラーマ1世は、王都を対岸のバンコクに 移し、ラタナコーシン(チャクリー)王朝を築きます。
 ラーマ1世は、アユタヤを模倣してエメラルドブッダで有名なワット・プラケオを建立しました。ワット・プラケオの入り口には、タイ伝統医学の祖「シワカ・コマラパ師」の座像があり、お参りをする人の跡が絶えません。
 またラーマ1世は、バンコク最古の寺院、ワット・ポータラム(別名ワット・ポー)の本堂を修復しました。そして、境内にルースィーダットンと呼ばれる仙人の体操の彫像を作りました。ワット・ポーには、全国各地の医学知識が集約され、薬草医学の処方とマッサージ法は、サーラーラーイと呼ばれる東屋の石版に刻まれています。

②ラーマ2世時代(1809年~1824年)
 ラーマ2世は、1809年に即位され、数多くの医学書を全国から集め、モー・ルアンの編纂によって、「伝統医学の教本」をつくりました。

③ラーマ3世時代(1824年~1851年)
 ラーマ3世は1824年に即位し、ワット・ポーにタイで最初の大学を設置しました。ここでは、タイ伝統医学の他、パーリ語、仏教 教理、占星術、文学、美術などが教えられました。そして、亜鉛と錫の合金でできたルースィーダットン像80体も作り直されました。また、かつては王宮内でしか植えられていなかった入手しにくい薬用植物なども寺院内に植えられました。
 現在でも、ワット・ポーには、タイ伝統医学の学校が残っており、世界中からタイマッサージを習いに来ています。

④ラーマ4世時代(1851年~1868年)
 ラーマ4世(モンクット王)は、20歳の時に出家をして仏道修行に励み、1851年に即位しました。当時、西欧列強はアジアの植民地化を進め、既にセイロン(スリランカ)は英領、インドネシアはオランダ領となっていました。またビルマ(ミャンマー)には英国が、ベトナム、ラオス、カンボジアにはフランスが植民地化の準備を進めていました。
 西欧列強は植民地化を進める際に、まず宣教師を送りその国の指導者をキリスト教に改宗させ、そのキリスト教を武器として侵略を進めたのです。

ラーマ4世は、キリスト教に対抗するために、迷信、俗信としか考えられない奇怪な儀式を行っていた仏教から、本来の合理的で科学的に証明できる仏教に改革しました。その改革はタマユット運動と呼ばれています。この仏教改革により、タイ国は植民地化をまぬがれ、東南アジアで唯一の独立を守り続けることができたのです。
モンクット王と彼の子供達の家庭教師、イギリス女性のアンナ・レオノウェルズはミュージカル映画「王様と私」のモデルとなっています。しかし、この映画は事実を正確に描写していないとの理由で、タイ国内では上映禁止となっ ています。
ラーマ4世は新しい助産方法などの西洋医学を積極的に取り入れました。しかし、タイ人の間では、生活習慣に伝統医学が深く根ざしていたため、西洋医学に対する意識は容易に変わりませんでした。

⑤ラーマ5世時代(1868年~1910年)
 ラーマ4世がマラリアで崩御された後、ラーマ5世(チュラロンコーン王)が弱冠15歳で即位され、1898年(明治31年)には日タイ友好通商条約を締結しました。
 またラーマ5世は、1905年に奴隷制度を廃止し、古い医学書にも興味を持たれ、後世に残すために保存しなければならないと考えました。この時代にはタイ国内最大最古の病院であるシリラート病院も設立され、伝統医学と西洋 医学の治療が行われますが、後に西洋医学の人気が高まり、伝統医学は徐々に使われなくなりました。
 この時代ラーンナー王朝は、ラタナコーシン王朝の支配下に入り、ラーンナー王朝は終わりを告げます。
⑥ラーマ6世時代(1910年~1925年)
 ラーマ6世は9年間イギリス留学し、1910年に即位し、国民に姓を名乗らせ、義務教育制度を施行し、専門的知識もなく訓練や試験を受けていない者が医療に従事する危険を防ぐため、医療に関する勅令を発布しました。勅令に記された資格を満たす伝統医はごく一部だったため、伝統医の多くは捕まるのを恐れて、医者をやめたり医学書を捨てたりしました。それでも伝統医学は消滅しませんでした。
⑦ラーマ7世時代(1925年~1934年)
 ラーマ7世の治世中、世界は大恐慌に襲われ、1932年に立憲革命が起こり、絶対王政から立憲君主制になり、スコータイ王朝以来700年続いた絶対王政に終止符が打たれました。
 立憲革命後、第一次ピブーン内閣は国号を「シャム」から自由を意味する「タイ」へ変更しました。この時代は、法律で近代医学と伝統医学が区分されるようになりました。
⑧ラーマ8世の時代(1934年~1946年)
 ラーマ7世の降座後、ラーマ8世が即位します。1946年スイスから学業を終えて帰国した王は、6月に宮殿内で、銃弾による謎の死を遂げます。この時代大東亜戦争が起こり、日本軍はインドへの補給ルート確保のため、タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道を建設します。
 その様子を描いた映画「戦場に架ける橋」の中には、日本軍の残虐性を誇張して描いた部分がありますが、一部の軍人による乱暴な行動はあったものの、実際の日本軍の行動は、映画の描写とは全く異なり、欧米人捕虜やアジア人と 同じ様な物を食べ、一緒に汗水を流して働いていたのです。
 このことは、もと一労働者のプラソン・ソーンシリ元外相の話からも明らかです。
 「教科書が教えてくれない東南アジア」(扶桑社)の中で、プラソン氏は「私は破格の給料をもらって働きました。タイ人労働者はみんなそうでしたよ。『仕事がある』と聞いてやってきたマレー人の中には、悲惨な目にあった人もいました。でも、酷使で死んだというよりも、病気で死んだのです。」と述べています。
 近代医学が勢いを増してきたこの時代、「タイマッサージ」は治療効果が定かでないという理由で、タイ伝統医学の中から、一時その地位を失ってしまうのです。
⑨ラーマ9世の時代(1946年~2016年)
 兄王の不幸な謎の死の後、ラーマ9世(プミポン国王)は、19歳で即位をします。プミポン国王は、王宮内で農作物の研究をされたり、ヨットレースに出場したり、作曲や、映画を作るなど精力的に働き、その人格と知性により 国民から多大な支持を得ています。
 1961年、プミポン国王がワット・ポーを訪れ、マッサージの学校を設立するように要請しました。そして、一度地位を失ってしまったタイマッサージは、この時代に再びその治療効果が認められ、タイ伝統医学の一部門として復活を果たすのです。

10.ワット・ポー(寺院)について

タイマッサージの総本山ワット・ポー(正式名称をワット・プラチェトゥポーン・ウィモマンクララーム・ラージャクラマハヴィハーン)は、タイ国第一級の王立寺院で、ラタナコーシン王朝時代の1788年、ラーマ1世によって、ワット・ポータラムを大修復し、建立されました。

境内には、スリランカから持ってきた大きな菩提樹の木があり、人々の礼拝の対象になっています。この木は、釈尊がその下で悟りを開いたといわれている菩提樹の枝を挿し木したものと伝えられています。菩提樹のことをポー・トゥリーと呼ぶため、この寺院は通称ワット・ポーと呼ばれています。

本堂の東には、タイ伝統医学の重要な部門であるタイマッサージの施術が受けられるサーラーラーイ(東屋)が2棟あり、毎日多くの観光客が訪れ、タイマッサージを体験しています。以前はここでタイマッサージの授業も行われていましたが、現在学校は寺院の外の西側に位置しています。
 本堂の西側には別のサーラーラーイがあり、タイ伝統医学の基礎理論であるセンとジュッ・ゴッ(ツボ)を書き記した32枚の石板が天井付近に掲げてあります。
 南の入り口近くには、仙人が体操をしている彫像を集めた小山が2つあります。これらの彫像は、最初粘土で作られていましたが、ラーマ3世の時代に亜鉛に鈴を混ぜた合金で作り直されました。以前は80体あった彫像も、壊されたり盗まれたりして現在では24体しか残っていません。
 仙人はタイ語でルースィー、体操はダットンといい、この仙人の体操をルースィーダットンと呼んでいます。
 これらのポーズは何人もの仙人によって編み出されたもので、身体を鍛え、筋肉や身体の各部分の動きをなめらかにし、身体の歪みを整え、長寿を全うできる効能があります。また、ルースィーダットンをすることで、タイの伝統医学で病気と認識されている様々な症状(疲労、肩こり、めまい、立ちくらみ、精神衰弱、動悸、おびえ、心臓疾患、高低血圧等)を緩和するだけではなく、呼吸の質を高め、精神をリラックスさせる効果も得られます。 そして、タイマッサージを行う側は自分の健康管理のために行うと共に、施術を受ける側にこの体操法を教えることでより良い施術効果が期待できます。
 このルースィーダットンは、体の中に溜まった炭酸ガスと新しい酸素を交換し、とても爽やかな気分になるタイ伝統の体操法で、皆様にも是非体験していただきたい運動の一つです。

11.センについて

タイ伝統医学では、生命エネルギーが身体の中を流れる通り道を「セン」と呼び、それはヨーガの「ナーディー」に相当します。また、この「セン」上には「ジュッ」、又は「ジュッ・ゴッ」と呼ばれる様々な症状に効果があるツボも存在します。
 センは、現代医学の解剖学上は存在しないし、体を開いてみても見ることはできません。胎児が母親の胎内にいる時、胎盤を通して酸素や栄養素が母親から胎児に送られ、胎児が出した二酸化炭素や老廃物はまた同じルートを通って母親の胎内に吸収されます。そのルートがセンの考え方の始まりといわれています。そのためセンは、臍周辺から各感覚器官、泌尿器官、排泄器官、生殖器官、そして手足や体の中心を通っているわけです。
 そのルートは体の表面を流れているわけではなく、体の奥を通っていると考えられています。また、このセンは、古代インドの苦行者やタイのルースィー(仙人)が、自分の体の感覚をトレーニングによって研ぎ澄まし、その感覚によって感じたものを、まとめたものとも考えられています。その名称もサンスクリッド語のままで、その発音をタイの人たちは、そのまま使っています。そして長い間、語り継がれる内に、別な名称になったり、通るルートが変わったりしました。センは細かいものまで数えると、約7万2千あるといわれています。ここでは、代表的な10本のセンを紹介します。

①イタ(Ittaha)― 体の左側
 臍部の2横指左から始まり、膀胱、鼡径部から大腿部内側を通り、左膝をまわり、 膝の外側から大腿部後側を上がり、殿部、背骨の左側を上昇し、首、頭部を経て左 鼻孔まで続く。(このセンの一部は、膀胱経に相当する)
 このセンは脳と呼吸器官の左側をコントロールし、このセン上のツボをマッサージ することにより、腹痛、膀胱炎、膝痛、腰痛、背部痛、首の痛み、頭痛、風邪、鼻 炎、副鼻腔炎などの症状に効果がある。

②ピンガラ(Pingkhala)- 体の右側
 臍部の2横指右から始まり、膀胱、鼡径部から大腿部内側を通り、右膝をまわり、 膝の外側から大腿部後側を上がり、殿部、背骨の右側を上昇し、首、頭部を経て右 鼻孔まで続く。(このセンの一部も、膀胱経に相当する)
 このセンもイタと同様、脳と呼吸器官の右側をコントロールし、このセン上のツボ をマッサージすることにより、腹痛、膀胱炎、膝痛、腰痛、背部痛、首の痛み、頭 痛、風邪、鼻炎、副鼻腔炎、そして肝臓、胆嚢疾患などの症状に効果がある。

③スマナ(Sumana)- 体の中央
 臍部(臍の3横指上、太陽神経叢)から始まり、体の中心を上昇し、喉の奥から首 を通り、舌の付け根で終わる。(このセンは、任脈、督脈の一部に相当する)
 このセンは、心臓、肺、味覚などの内部器官をコントロールし、このセン上のツボ をマッサージすることにより、消化器疾患、腹痛、吐き気、嘔吐、鼓腸、しゃっく り、呼吸困難、喘息、咳、気管支炎、心臓病、胸部痛、喉の痛みなどの症状に効果 がある。

④ガラタリ(Kalathari)- 体の中心から四肢へ
 臍部(臍の2横指上)から始まり、二つのセンは下降し、鼡径部を通り、大腿部、 下腿部の前側を下り、足首までいき、そこから5本に分かれて、足の指先で終わる。 (このセンの一部は、胃経、膀胱経に相当する)
 もう二つのセンは、臍から上昇し、腹部、胸部を経て、腋窩を通り、腕の内側のラ インを下降し、手関節で5本に分かれて、手の指先で終わる。(このセンの一部は、 心包経、三焦経に相当する)
 このセンは、手足の動きをコントロールし、このセン上のツボをマッサージするこ とにより、手足の痛み、しびれ、麻痺、筋力低下、関節の痛み、消化器疾患などの 症状に効果がある。

⑤サハサランシィ(Sahatsarangsi)- 体の左側
 臍部(臍の3横指左)から始まり、鼡径部を通り、左大腿部、下腿部の前内側を下 降し、足首をまわって、大腿部、下腿部の外側を上昇し、腹部、胸部、喉、顎を通 り、左目で終わる。(このセンの一部は、脾経、胃経に相当する)
 このセンは、視界、目、まぶたの動きをコントロールし、このセン上のツボをマッ サージすることにより、こむら返り、膝痛、足首の痛み、胃痛、視力障害、疲れ目、 白内障などの症状に効果がある。

⑥タワリィー(Tawaree)- 体の右側
 臍部(臍の3横指右)から始まり、鼡径部を通り、右大腿部、下腿部の前内側を下 降し、足首をまわって、大腿部、下腿部の外側を上昇し、腹部、胸部、喉、顎を通 り、右目で終わる。(このセンの一部も、脾経、胃経に相当する)
 このセンもサハサランシィと同様、視界、目、まぶたの動きをコントロールし、こ のセン上のツボをマッサージすることにより、こむら返り、膝痛、足首の痛み、胃 痛、視力障害、疲れ目、白内障、そして虫垂炎などの症状に効果がある。

⑦チャンタプサン(Chanthapusang)- 体の左側  ※ラウサンともいう。
 臍部(臍の4横指左)から始まり、腹部、胸部、喉を通って、顔から左耳で終わる。 (このセンの一部は、胃経、膀胱経に相当する)
 このセンは、聴覚、身体の平衡感覚をコントロールし、このセン上のツボをマッサ ージすることにより、難聴、耳鳴り、耳の痛み、歯痛、三叉神経痛、顔面神経麻痺、 腹痛、胸部痛などの症状に効果がある。

⑧ルチャン(Ruchan)- 体の右側  ※ウランカともいう。
 臍部(臍の4横指右)から始まり、腹部、胸部、喉を通って、顔から右耳で終わる。 (このセンの一部も、胃経、膀胱経に相当する)
 このセンもチャンタプサン同様、聴覚、身体の平衡感覚をコントロールし、このセ ン上のツボもマッサージすることにより、難聴、耳鳴り、耳の痛み、歯痛、三叉神 経痛、顔面神経麻痺、腹痛、胸部痛などの症状に効果がある。

⑨スクマン(Sukhumang)- 体の中心 ※ナンタカワットともいう。
 臍部(臍の1横指下、2横指という説もある)から始まり、骨盤のわずか左側を肛 門まで伸びる。(このセンは、任脈、督脈の一部に相当する)
 このセンは、肛門括約筋と大便をコントロールし、このセン上のツボをマッサージ することにより、便秘、下痢、痔、下腹部痛などの症状に効果がある。

⑩シキニー(Sikinee)- 体の中心 ※キチャナともいう。 
 臍部(臍の2横指下)から始まり、骨盤のわずかに右側を、子宮、生殖器まで伸び る。(このセンも、任脈、督脈の一部に相当する)
 このセンは、生殖機能、尿をコントロールし、このセン上のツボをマッサージする ことにより、膀胱炎、生理痛、生理不順、不妊症、頻尿、失禁、不感症、インポテ ンツ、早漏などの症状に効果がある。